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超システムとしての人間

生物学のはなしはいつも面白い。以前、飲み会でAさんとSくんとで生物についてのはなしを延々としたものだが、酒の席で仕事のはなしをするのがあまり好きでない私にとって真面目な議論をする題材としての生物学は刺激的でとても面白い題材だと知った。

 昨年末の日経の書評で、生物学者の福岡先生が多田富雄さんの「免疫の意味論」を評して、「自分探しの旅に出ても自分などどこにも存在しない。自己とは今いるあなたから切り抜かれたもので、世界の中心にいるつもりのあなたは実は何もないヴォイド(欠落)なんだよと言う多田先生の声がこだまして聞こえる。」と述べられていたのが印象的だった。この文章だけでは正確になんのことか良く分からなかったが、興味を感じて多田先生が「免疫の意味論」の次に書かれた「生命の意味論」(新潮社)で、人間の一個の受精卵から人間が人間らしく生まれてくる超システムのはなしを興味深く読んだ。

 私は今まで一個の受精卵からDNAの指示に基づいて正確に細胞分裂を繰り返して個体としての私ができるものと思ってきたのだが、本書によればどうもかなり危うい偶然の重なりの中で個体を形成しているらしい。ひとつの細胞が遺伝子DNAに書き込まれた情報を次々に引き出しながら自分で自分を作り出していくわけだが、そこには重力だとか、温度とかいろいろな偶然の要素が入り込んで、そうした偶然が積み重なって個体差が生じるというんだね。じゃあ、我々の体を病原菌から守っている免疫系はどうやってそのシステムを維持しているのか。リンパ球のT細胞は毎日膨大な数が新しく生まれて来るわけだけれど、守るべき「自己」と攻撃すべき「非自己」を間違えてしまうような出来の悪いリンパ球はないのかというとやはりあるんだね。生まれてきたT細胞はそれが作られる胸腺内で守るべき「自己」と攻撃すべき「非自己」を正確に峻別できない不良T細胞(なんと全体の95%)が除かれてしまうんだ。別の言い方をすれば、「自己」と反応してしまうもの、つまり「自己」の一部であるものは、細胞内の死のプログラムが起動してアポトーシス(自死)を起こすことになるわけだ。免疫系の観点から見れば、「自己」は自分の中では欠落していなければいけないものということになるわけで、それが冒頭の言葉になったというわけ。

 著者が言うには、生物学は長く「死」というものを研究対象にして来なかった。しかし、個体としての私の「生」を維持するためには、細胞レベルでの「死」が必ず必要になるという一見矛盾するような定理が分かるにつれて、生物学の研究テーマとして「死」は重要なテーマとなっているという。癌も個体が死ぬまで永遠に増殖を続けてしまうという点に本質的な問題があるわけで、細胞の「死」と大きな関わりを持っていることからもなるほどねと感じるね。

 このアポトーシスという言葉は人気TVゲームであるメタルギアで初めて知ったものだが、ゲノム情報だとかアポトーシスだとかなんて刺激的で面白いんだと思ったものだ。汚いはなしで恐縮だが、人間のうんちが何から出来ているかというと食物の比率は結構小さくて、腸管の上皮細胞が死んだ残骸がかなりの比率を占めているのはどこか別の本で読んだ気がする。これだけの細胞が日々生まれ変わっているわけだとすると、こうした細胞の集合体である個体としての我々も細胞が新しくなった分だけ新しい自分に変わっていかなくてはいけないね。以上
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自動機・省力化機械の開発・設計・製造組立の天竜精機

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